書籍・雑誌

谷崎潤一郎著『春琴抄』を読む

 ま,無料じゃはないと読もうとは思わない題材だけど,読んでみると。谷崎の小説は,なかなかおもしろい。
 変な男女関係が得意なのかな。目の見えなくなった春琴のために,自らの目を傷つける…なんて,すごい愛…これて,たぶん変人なんだけど,こういうところに注目する谷崎って,いつも何を考えていたんだろう。確かに,こんなに深い愛はないかも。なんとなく納得するように書かれているから怖い。

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高野圭著『たのしく教師デビュー』

 一度は一般の会社に働いた高野さんが,明星大学の通信で教員免許状を取得し,高校に勤め,そして3年が経った…そんなころの事が綴られている本です。
 高野さんは,明星大学で,仮説実験授業とその考え方に出会います。そして,採用された現場でも,子どもたちと仮説実験授業をしたり,生徒指導でも,その考え方で接したりしていく中で,「先生の授業は楽しい」「先生のこと好き」「だいきらいな物理も楽しくなってきた」などと言ってもらえるようになるのです。
 ベテランの教師でなくても,子どもたちに歓迎される授業はできる。しかも高校でも可能である。そんなことを示してくれる内容でした。

明星大の恩師・小原茂巳さんのこんな言葉に,私も深く共感しました。

 だから,「〈意欲〉のない子ども達がいてあたりまえ」と思っていた方がいいですね。子ども達に対して,「意欲があるのがあたりまえ」と思ったら,…中略…「その態度はなんだ!」という風に,ムカついてしまいますから(笑)…中略…教師の役割として一番大事なのは,「興味を持続できること」=「〈意欲〉を持ってもらうこと」だと思うんですよね。(193p)

 意欲がないのは,子どもが悪いわけではないんです。これだけでも共通理解できると,学校はもっともっと子どもが過ごしやすい場所になるんですがねえ。

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椋鳩十著『動物ども』(復刻版)

 5年生国語の教材としていまやロングセラーになっている「大造じいさんとガン」というお話が収録されている本です。出版されたのは昭和18年5月。「大造爺さんと雁」という題名でした。本書には,他にも,14の動物に関するお話が収録されていて,どれも,動物の凜々しい姿が表現されています。私がもっているのは,ほるぷから出た復刻版です。
 それにしても,本書のタイトル『動物ども』の「ども」が気になってしまいます。「ども」には「たち」の意味があるのは分かりますが,なんとなく,自分より下に見下している表現のような気がするんです。昔はそうじゃなかったって事かなあ。
 今なら,『動物たち』といいたいところです。

三省堂の大辞林を参照してみます。

ども 【共】( 接尾 )
①  名詞に付いて、そのものが二つ以上であることを表す。 「者-進め」 「犬-」 「こまごましたこと-」 〔人を表す場合、現代語では「たち」にくらべて敬意が低く、目下の者や見下した意味合いに用いられる。「野郎-」「若造-」〕
②  一人称の代名詞に付いて、謙譲の意を添える。 「わたくし-の責任です」 「てまえ-の店では扱っておりません」
③  人を表す名詞に付いて、相手への呼び掛けに用いる。 「嫗-、いざたまへ/大和 156」

 やはり,私の感じたとおり,現代語ではその意味あいが微妙に変化してきたんですね。

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板倉聖宣著『板倉聖宣の考え方:授業・科学・人生』

 文字通り,今年,2月になくなった板倉聖宣氏の考え方に触れることのできる文章が30編,収められている。
 これまでにも,どこかで読んだことのある文章だけれども,こうして1冊の本になってみると,板倉氏の稀なる「社会を見る目」「ものを見る目」の確かさと,ユニークさが伝わってくる。
 板倉氏の科学論・哲学論の入門書でもあり,再入門書でもある。
 ここ数年の教育界の流れにどっぷり浸かってしまっている自分に気づかせてくれた。
 妥協しなくてもいい部分もいっぱいあるのだ。ちょっと最近は妥協しすぎているなあ。

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黒田杏子編著『存在者 金子兜太』

 こんな本を手に取るようになるとは,1年前までは思ってもみませんでした。が,今,金子兜太にハマってしまっています。
 付録のCDをかけながら,夕方,家の裏の墓場近くの道を犬と散歩していたら,なんか,背筋が寒くなってきた。

著者 : 黒田杏子
藤原書店
発売日 : 2017-03-25
 先日(2018年2月)亡くなった兜太について書かれた,一番新しい本です。2017年4月発行です。
 編集者の黒田杏子は,ずっと兜太と付き合いのある俳人です。兜太は,この杏子について,あとがきで次のように述べています。

編集者である黒田杏子さんとは長い間のつきあいです。私は通常クロモモさんと呼んでおりますが,不思議なことに,この人と一緒に居りますと,落ち着きます。-中略-彼女は単なる聞き手ではない。私の内に眠っているさまざまな記憶や体験,主張といったものを,ごく自然に引き出してくれる魔法使いです。十九歳私より年下だということですが,ときどき私には姉のようにも感じられます。 (298p)

 そのクロモモさんが聞き取った兜太のインタビューは,第3章にまとめられています。インタビューの質問の部分(クロモモさんの言葉)は省略されて,一人語りのように編集されています。兜太自らが語る俳句伝記のようで,興味深く読みました。中村草田男や加藤楸邨らに影響を受けながら,独自の俳句世界を作っていく様子がよく分かります。

 内容は前後しますが,第2章には,あの東京新聞紙上で連載されていた「平和の俳句」について,同じ選者のいとうせいこう氏と(司会者の加古陽治)の鼎談が紹介されています。これも,面白いです。今,なぜ,平和の俳句なのかが,とてもするどく語られています。もしかしたら,最短詩の俳句だからこそ,わりと簡単に世界に呼びかける力を持っているのではないかとも思えてきます。『平和の俳句』の単行本と合わせて読むと,より,鼎談の内容が理解できると思います。

私は平和な世の中ということは草の根を大事にすることだと考えています。上っ面の人だけの平和なんてのはだめだ。その草の根を大事にするということは俳句をやることと密接にかかわっているわけです。これは私が俳句専念を決めたときにも考えていたことでもあります。(126p)

一茶は芸術的におもしろいものを作ると同時に,おのずから一般的になっているでしょう。一般性と芸術性の兼ね合いを一茶がおのずからやっている,あの「おのずからやっている」という世界がオレの中に出来なきゃいかん。(128p)

 第4章と第5章は,それぞれの俳人たちがそれぞれの兜太を語ります。とくに第5章の坂本宮尾氏の「青春の兜太」は,兜太の俳句の歩みがじっくり取り上げられていて,なかなかおもしろかったです。

戦後の金子兜太の作品は,社会性俳句,前衛俳句と称され,自身は造型俳句を唱えた。人間と社会を力強く詠んだ彼の句は,キュビズム時代のピカソを思わせる。兜太は,見た目の自然さ,本物らしさを捨て,デフォルメによってものの本質に迫り,個性的な構図の作品に仕上げた。(250p)

 ここに来て,私が兜太の作品に引きつけられる理由が分かってきた。私は,二十歳の頃から,超現実主義(シュールレアリスム)の詩や絵画に興味を持ってきた。この兜太の俳句にはそのシュールレアリスムの世界に極めて近いもの持っているのだろう。

・梅咲いて庭中に青鮫が来ている
・主知的に透明に石鯛の肉め

 これが俳句なら,私も俳句に付き合ってみたくなる。

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大鹿卓著『渡良瀬川―足尾鉱毒事件の記録・田中正造伝』

 よくもまあ、こんなに臨場感あふれる物語が書けたものだ。作者が、まるでその場に居合わせたのではないかと思えてくる。
 勿論田中正造の残した書簡はそのまま使えるし、国会での議事録もあるだろうが、住民との話し合いのことや講演会などの言葉がそのまま残っているとは思えない。正造などの日記で判断したのであろう。
 作者の大鹿卓氏が、それらの資料を丹念に読むとともに、時代背景となる日本政府のゴタゴタなどもしっかり取り入れることで、時代を経て深まっていく正造の怒りと落胆などが、しっかり読者に伝わってくるのだろう。
 1941年発行の本書は、この新版で、手に取りやすくなった。
 巻末には、宇井純氏の解題「時間の深淵を越えて」が掲載されている。1972年の文章である。

「足尾鉱毒事件の我々に与える教訓はそれに止まらない。鉱毒事件は圧殺されたが、鉱毒はなくならなかった。今日では鉱毒は渡良瀬川下流の農民にとって自然の一部となってしまう、それを堪え忍ぶほかには道はなくなった。いかに技術的な対策を積み重ねても、もはや鉱毒の根本的解決は不可能なのである。今日の公害を我々が放任するならば、百年の未来にわたってもなおその影響は子孫に及び、我々は無数の谷中村と足尾にはさまれて、その生きる場所を失うだろう。」本書p339

 フクシマのことを思うと、この宇井氏の予言がそのまま現代に再現してしまったことに対して、忸怩たる思いになる。エントロピーの法則は、常に存在することを思い知るのだ。ばらまくのは簡単だが、集めることは莫大なエネルギーが必要…こんな当たり前の事は、幼児の積み木遊びからも気づくことなのに…。

 この足尾鉱毒事件に対する運動が結果的に敗北したことに対して、後年の左翼の正造に対する歴史的評価がよくないらしい(正造の天皇中心主義の限界、農民と労働者との連帯のなさ)が、それについて、宇井氏は、次のような効果もあったと述べている。

「一方では足尾鉱毒事件は近代の社会運動の源流として、河上肇や石川啄木をはじめとする多くの個性を社会運動に目ざめさせるきっかけとなり、他方では勝海舟、谷干城、榎本武揚、頭山満から幸徳秋水、片山潜、荒畑寒村にいたる幅広い立場の人々を巻きこんでゆく巨大な潮流となったのである。」p338

 足尾鉱毒事件に関しては、農商務大臣になった榎本武揚が、自分の職を賭して対応にあたってくれていた。一方、陸奥宗光や原敬は、ま、とんでもない悪として浮かびあがってきてしまう。

 最後に、本書は、田中正造の自伝ではない。彼が足尾鉱毒事件を議会で取り上げるようになってから、天皇への直訴までの出来事に絞って書かれている。
 この後の話(谷中村事件)については、同著者による『谷中村事件』という本がある。

 

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金子兜太他選『金子兜太いとうせいこうが選んだ「平和の俳句」』

 いとうせいこうと金子兜太さんが選者を務めていた「平和の俳句」が1冊の本になりました。

○十八才 戦争しないと 決めた年

 十八才から選挙権が。この作者は,戦争をしないと決めてくれました。自分のために,これから生まれる子どもたちのために。

 地元紙『北陸中日新聞』の第1面に紹介されていた「平和の俳句」の1年間分の作品をまとめた単行本です。このコーナーは,2017年いっぱいまで続きました。本書は,その中の2015年の1年間に紙上で紹介された俳句が集められています。
 川柳や狂句など風刺の効いたものが好きな私ですから,もともと俳句にはあまり興味がありませんでした。というのも,俳句というのは日本の四季を詠んでいるだけのものであって,自然とじっくりと向き合う時間のある人の高尚な趣味だと思っていたからです。俳句なんて,社会に対しても,あんまり力を表さないし…みたいに思っていました。
 しかし,「平和の俳句」は違っていました。限りなく川柳に近いような作品もありました。「平和の俳句」は,時代を捉え,しかも,社会に働きかける力まで感じるものでした。「俳句もなかなかやるな」と思った次第です。
 選者のいとうせいこう氏と金子兜太氏については,対談集も出ています。その本も,ユニークな二人の刺激的な本でした。
 本書でも,選んだ俳句についての両者の選評がちっちゃな字ですが載っていて,これを読むのもまたたのしいです。
 私のお気に入りを5つくらい紹介します(たくさんありましたが)。

○平和には主義などないと大根干す
 右派だとか左派だとか,すぐにレッテルを貼って差別をしようとするネットの人たち。これは日本だけではないのかな。でも,平和を求める気持ちは,みんな同じはず。

○戦争はすべての季語を破壊する
 これは,俳人しか読めない句でしょうね。そうか,季語ってやっぱり大切なんだな。日本の四季を楽しめるのは平和だからだなと思いました。かっこいい。俳句っていいな。でもこれって川柳っぽい。

○うたってよピースソングを忌野忌
 忌野清志郎,大ファンです。数年前の5月2日,ラジオから彼の死去を知ったのでした。「愛し合ってるかい~」という声が聞こえてきそう。個人的に趣味が同じなので記憶に残りました。

○若者よ銃など抱くな人を抱け
 自然な姿が一番。銃など抱かないで下さい。昔,銃を抱きながら「人」を抱いたこともあったようです。それがいまだに尾を引いている―慰安婦―のです。ここでいう〈人〉は〈愛しい人〉。人を抱けば新しい生命が生まれる。銃を抱けば,命を奪い奪われる。これも川柳に近い。

○戦争はしないと言ったではないか
 これほど直接的な言葉はない。
「あんた,あのとき,軍隊は持たない,我々は戦わないと言ったでしょ。なんで気が変わったの。」
「またバカなことをするの? 時代が変わったなんてこじつけでしょう。この嘘つき!」
「私は,あなたの言葉を覚えていますよ。」
「戦争をしないといったから,この国をもう一度好きになろうとしたのに…。なによ今さら」
「〈本当は70年前から,また戦争したかったんだ〉〈戦争のできる国でいたかったんだ〉〈あのときはあいつが怖かったので,そう言っただけだ〉なんて,言い訳しないでね!!」

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谷崎潤一郎著『痴人の愛』

 青空文庫だから,ただ。ありがたい世の中だよ。

 若い娘と10歳以上年上の男との,変な夫婦関係は,谷崎が実際に体験したことらしい…というのを「歴史秘話ヒストリア」で知って,読んでみたいと思った。
 破天荒なナオミに振り回される男だが,そういうことさえも,自分のナオミへの合いに転化してしまうところがなんとも悲しい。男の性って,こんなんじゃないよな。
 それにしても,いまから何十年も前に,こう言う小説が書かれていたってことがすごい。

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荒畑寒村著『谷中村滅亡史』

 姜尚中著『維新の影』で紹介されていた本。気になったので,県立図書館から取り寄せて読んでみた。刺激的な本だった。岩波文庫からも同様の本が出ているので,そちらの方を手に入れて,本棚に入れておくつもり。

 いきなりだが、本書「第二十六 谷中村の滅亡」から引用しよう。

「明治政府悪政の記念日は来れり。天地の歴史に刻んで,永久に記憶すべき政府暴虐の日は来れり。準備あり組織ある資本家と政府との、共謀的罪悪を埋没せんがために、国法の名によって公行されし罪悪の日は来れり。ああ、記憶せよ万邦の民、明治四十年六月二十九日は、これ日本政府が谷中村を滅ぼせし日なるを。正義と人道との光り地に堕ちて、悪魔の凱歌は南の極みより、北の涯まで亘る。」(本書、p156)

 明治維新を堺に、西洋に追い着け追い越せと、ひたすら西洋をマネて近代化を続けてきた日本社会。そこには、もちろん国民にとってプラスのこともたくさんあったに違いない。しかしその反面、一人一人の命や生活を蔑ろにする政策が強制されてきたことも間違いない。その一つの典型的な事件が、足尾銅山鉱毒事件という日本最初の公害問題の発生と、それをうやむやにして葬り去ろうとする谷中村滅亡(村を遊水池にする)の施策である。
 明治維新が西洋でいうブルジョア革命の一種だとすれば、維新革命後の明治政府と資本家たちは、これまでの古い体制を乗り越えることと同時に、自らが新しい社会の課題に直面することになるのは、歴史の必然である。そんな課題を前にしたとき、資本家たちは人間の倫理を失わないで経営ができるのか…。そんなことをすると競走には勝てない。したがって、一般市民には黙っていてもらいたいのである。その方法が、権力と金の利用である。
 著者・荒畑寒村氏は、足尾銅山の経営者の古川市兵衛やその姻戚関係にあった時の農相陸奥宗光に対して、これ以上ない強い筆調で糾弾している。その後の栃木県の指導者に対しても厳しい。当時の社会主義的な思想を反映してか、とても過激な文章が続いていく。出版後、すぐに発刊禁止になったことも頷ける。本当に、これだけ怒りに充ち満ちた文章を読んだのは久しぶりだ。
 それでも、内容は詳しく、どのように地元住民が懐柔されていったのかがよく分かる。

 足尾銅山鉱毒事件~谷中村強制収用事件の流れを見ていると、「いつの時代も、政府や企業のやることは変わっていないな」と思う。日本政府がこの事件からしっかり学んでいれば、水俣病もイタイイタイ病も、あれほど大きな問題にならなかったに違いない。そう、多分、福島の原発事故もなかった(そもそも原発は建たなかったはずだ)。日本社会は、田舎の犠牲のもとでの経済優先で動いてきたために、そのひずみが大きくなってきてしまった。そして、ついには3.11となり、福島が「フクシマ」となってしまったのだ。

 1970年、本書が復刻されたときに書かれた宇井純氏の文章「解題―足尾鉱毒事件の意味するもの」を読むと、先に述べた感を強くする。

「日本は公害の先進国となってしまったという認識は、今や国内における常識となり、外国からも指摘されるところとなった。なぜこれほどに公害が激化したか。その根源は明治以来の近代日本の政治的体質と,日本資本主義そのものの生い立ちにあることを、『谷中村滅亡史』は書かれてから六十年後の今日も、はっきりとわれわれに教えている。」(p188)

 宇井氏は、こう書き出して、戦後の日本社会の公害や住民無視の状況を足尾事件と比較して言及している。残念ながら、二度あることは三度も四度もあるのだった。

 最後に…
「我々は、人の心を金で買うんだよ」という珠洲原発計画を進めていた当時の関電社員の言葉は、なんのことはない、明治の時代から続いていることがよくわかった。

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吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』

 サークルのメンバーからお借りしました。なんで,ベストセラーになっているのか,分かったような気がします。原作ではなく,マンガにしたってことが流行した原因のほとんどですね。たぶん。

 なんでこれがベストセラーになっているんだろうと思いながら読みました。
 ここに出てくるおじさんのように,的確に,その場にあったことを助言してくれる大人って,すでに,思春期の者たちのまわりからいなくなったってことなのか?
 それとも,もうすでに大人になってしまった人たちが,「どう生きればいいのか」を探っているということなのか。
 その両方とも,あるからこそ,こうしてベストセラーになったのかも知れない。
 起きてしまったことをぐずぐず悩むよりも,これからのことを考えればいいなどというのは,わかっていてもやめられない…という感じ。
 私が,とくに心に残ったのは,最後の部分である。

「苦痛を感じ,それによってからだの故障を知るということは,からだが正常の状態にいないということを,苦痛が僕たちに知らせてくれるということだ。」
「同じように,心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて,そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは,その苦痛のおかげで,人間が本来どういうものであるべきかということを,しっかりと心に捕らえることができる。」
「人間が本来,人間同志調和して生きてゆくべきものでないならば,どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることができよう。」

 人間関係に悩むことが,思春期の一番の危機なのかも知れない。このように,体の故障と心の痛みを比較することで,著者の意見が,若者たちの心にすーっと溶け込んでいくことだろう。

 吉野源三郎氏は,『世界』の初代編集長だったという。学生時代,この本をよく読んだ。難しい論文も多かったが,自分と社会(距離的にも時間的にもはなれているはずの社会)というものが,本当は深くつながっていることを感じることができ,もっと勉強しなければと思いながら読んでいたことを思い出した。

 大人にもお薦めの本であることは確かである。マンガである必要はないけど。

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