旅行・地域

大塚国際美術館は確かにすごかった

180505_01 さて、明石大橋を渡り,淡路島を縦断した先にある徳島県鳴門市。そこに,一度は行ってみたいと思っていた美術館があります。大塚美術館です。大塚というのは,あの大塚製薬の大塚です。この美術館は,世界初の陶板名画美術館として,大塚グループ75周年を記念して建設されました。ものすごい大きな美術館です。
 内容は,古代壁画から西洋の名画まで,全て原寸大で展示されていて,しかも,ゆとりのある展示空間です。すべてをじっくり見て回るには,1日でも足りないくらいです。
180505_02 わたしたちは,午後2時前に入って,閉館ギリギリの午後5時30分までいましたが,それでも,最後はかけ足でした。いやー,迫力があったよなあ。
 一番上の写真は,エレベーターを上がると現れるミケランジェロ「システィーナ礼拝堂天井画および壁画」。まずは,これだけでビックリします。
 真ん中の写真は,私の好きなゴッホの「タンギー爺さん」。近くで見れるし,写真もOKというこの美術館は,本物を見るよりも,絵をじっくり近くで見ることができます。ホンモノは,暗い展示室で,ロープがあって…と,なかなか絵には近づけませんからね。

180505_03 一番下の写真は,ご存じ,ピカソの「ゲルニカ」。ずいぶん大きな絵だということが分かります。ピカソの愚かな戦争をくり返す人間への怒りが伝わってくるようでした。
 

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3度目の明石天文台

180502_01  正式には「明石市立天文科学館」というらしい。私はなぜか,昔から「明石天文台」って呼んでいる。
 ここに来るのは3度目。1度目は子どもの時。この施設の中に「月の上では自分の体重がどうなるのか」を計って記録用紙をもらった覚えがある。今となっては,確かな記憶なのかどうかは自信がない…。2度目は,ある方との待ち合わせ場所として…。この日は,初めて会う紳士とゆったり過ごし,その方の奥さんと共に中華料理屋でご馳走になった。バイオリンなどが趣味の,なんとも上品なご夫婦だった。科学館より,そっちの方の記憶が大きい。
180502_02  そして,今回が3度目。神さんが「まだ一度も行ったことがない」というので,寄ってみることにした。実際,1.5時間くらいかけて回ったのだが,これだけゆっくり回ったのは、初めてかも知れない。プラネタリウムは遠慮した。展示物を見るだけでも時間がかかった。

180502_03  とにかく,まずは,子午線だろう。子午線の意味が「子(ね)」と「午(うま)」にあることを初めて知った神さんは,喜んでいた。これは,常識じゃないんだろうなあ。確かに,科学館の車を見るとネズミのキャラクターが。

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生野銀山その3

180501_2  明治に入り,生野銀山は政府直営の鉱山となりました。そこで,門柱には菊の紋がついています。門柱自身は,正門にあったものをここに移築したそうです。

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なかなかいいです。生野銀山

180430 兵庫県にある「生野銀山」に行ってきました。
 由来の看板も年季が入っていて,風情のある場所でした。

 兵庫県中央部、朝来(あさご)市にあった銀山。錫・銅・鉛なども産し、大同2年(807)発見と伝えられる。江戸幕府直轄となり、産出量を誇った。明治以後、三菱金属鉱業の鉱山となり、昭和48年(1973)閉山。(デジタル大辞泉)

180430_02 坑道にも入ることが出来ます。江戸時代のノミの跡や掘り進んだ狭い通路(狸堀)も見ることができるし,近代のダイナミックな掘削方法やその結果できた掘削跡も見ることができて,鉱山の歴史と時代の変化を感じることができました。亜鉛の鉱脈なんかもありました。
 置かれているマネキンがおもしろくて,それぞれに名前まで付いていました。子どもたちなら,そのマネキンを探し歩くだけでも,オリエンテーリングになるでしょう。休憩所に入ると,マツコ・デラックスのビデオが流れていて,その画面には,この銀山のマネキンたちが取り上げられていました。イケメンマネキンとして…です。面白~い。
180430_03 また,鉱山を外側から見ることもできます。上の写真の左の階段を登って行くとあります。これもまた,この場所の興味深いところです。さらに,地表に現れた断層も見ることができます。
 これらをしっかり堪能すると,軽く2時間はかかります。売店や展示場(無料)もあるので,休憩しながら過ごせました。
 人も多くないので,お薦めです。

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上田城址公園

180110_01 お目当ての上田城址公園へ。
 お天気もよくて,青空と城とのコラボレーションがなかなかいいです。
 今回も,一眼レフも持ってきたのですが,ビデオ撮影をしたかったので,車に置いてきたまま。しかたなく,スマホでしか撮影しました。

180110_02 城址内には,真田神社があって,どうも,このあたりにはピカチューが出るという噂らしいです(娘談)。

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日本中央・生島足島神社

180108_03 「生島足島(いくしまたるしま)神社」という,一風変わった名前の神社に行って来ました。たまたま上田城へ行く途中に見つけたので,寄ってみたのでした。まだ,初詣もしていなかったし…。
 公式HPによると,この神社は
生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社
らしいです。二つの神さまが祀られているので,その名前を平等に使ったんですね。また,諏訪大神もいらっしゃるとのことで,小さな御柱も建っていました。
180108_02 朝,10時頃を過ぎているというのに,池の水面は凍っていて,さすが長野県上田市だなと感心しました。
 この神社,標柱には「日本中央」という文字もあり,「この地が日本の中心だ!(どんな中心なのか知りませんが…)」と主張しているようです。

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六文銭かき揚げ天ざる

180107 上田城址公園前にある「千本桜」というお店。手打ちそばのお店だ。
 腹を空かせて店内に入ると,座席に着くまでに,お客さんが食べていたかき揚げそばに目が行く。大皿を覆うように乗っているかき揚げだ。しかも,六文銭入り。
 かき揚げそばは私の大好物。
 インスタ映えしそうなこの料理は,だんだんと飽きが来る。さすがに,この量のかき揚げは一人じゃ無理だなあ。家族にも分け与えて,なんとか完食。
 でも,おいしかったので,紹介しておく。上田城にお寄りの際には,是非,ご賞味下さい。値段は1570円。ちょっと高め。

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おちょぼさん

171025_01  岐阜ネタを続けます。
 養老から少し南に行ったところに「千代保(ちよほ)稲成」というお稲荷さんがあります。ガイドブックでも確認していたのですが,宿の仲居さんが,「地元の方はよく行かれますよ」とのことだったので,行ってみることにしました。地元では「おちょぼさん」の名前で親しまれているそうです。
 参道の両側には,お店が並んでいて,なかなか活気があります。が,しかし,神社そのものはこぢんまりしていて,なんで,こんなに人気があるのかなあという感じです。
171025_02  境内に入ると,薄揚げを切ったものが売っていました。ここでは,お賽銭代わりに,この薄揚げを購入して,神殿の前では,この薄揚げを置いてくるようです。これまでに体験したことのないしきたりではあります。「重軽石」も置いてあって,私が説明して上げると,先の夫婦が,それに合わせてやってみていました。

171025_03  神社の近くに「大学いも」を売っていたので,買ってみました。「芋にいちゃんの店」と書かれていましたが,店内にいたのは,可愛い女の子ばかりでした。おいしかったです。神さんは,「ネチョネチョが手に付かない」と驚いていました。

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関ヶ原古戦場

171022_01 今秋の旅の目的地・関ヶ原古戦場の話。
 まずは,石田三成が陣を置いたという笹尾山に登ってみました(左の写真)。
 ここから見ると,下の戦場が一望できます。笹尾山にいた係のお兄さんに,
「家康が陣を置いた桃配山ってどのあたりですか?」
と聞いたところ,お兄さんは,
「左奥の鉄塔の下あたりで,高さ10mくらいの小さな山で,今じゃ,道路ができて,その山は2つに分かれている」
と教えてくれました。「それじゃあ」ということで,家康が最初に陣を置いた場所・桃配山へも行ってみました。
171022_02 確かにど真ん中に道路が通っています。少しだけ坂を登って,そこから先ほど通ってきた古戦場の方を見ると,木が茂っていることもあり,大変見えにくいことが分かります。だから,家康は,闘いの途中で,陣を別の場所に移動させたそうです。その跡地へも行ってみました。桃配山よりも戦場に近く,ここなら,闘いの様子がよく見えたことでしょう。
 これまで戦場なんて行ったことはありませんでしたが,こうして回ってみると,結構面白かったです。行ってみて初めて分かることもありました。
 西軍を裏切った小早川の陣があった松尾山にも登ってみたかったのですが,時間がなくて断念しました。

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旧陸軍の火薬庫跡

171021_01 関ヶ原鍾乳洞の少し手前に,旧陸軍の火薬庫跡の洞窟がありました。
 洞窟の中にあった資料によると,正式名称は「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」というそうです。ここは洞窟式火薬庫で,他にも半洞窟式火薬庫や地上清涼火薬庫などもあったそうです(面積…約270㏊,火薬量…約320t)。1914年~1945年まで使用されていました。
171021_02 ずっと中まで入れるわけではありませんが,こういうのがちゃんと残されているんだと感心した次第です。
 近くには「立哨台」も残されていました。
 ここも,もともとあった鍾乳洞を利用して作ったのかなあと,勝手に想像していました。

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