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セイタカアワダチソウとススキの共存

111102  一時期,この能登半島の先端でも外来種であるセイタカアワダチソウが至るところに見られて,「これじゃ,ススキが生存競争で敗れるのも近いなあ」と思っていました。そのころ,五木寛之の「青春の門」という映画もあり,それは九州を舞台にした物語で「あれは背高泡立ち草~」なんて挿入歌があった気がします。そういえば,最初の頃の『青春の門』も,学生時代に読んだっけなあ。
 さて,そのセイタカアワダチソウですが,最近,まるでサルビアのように小さくこじんまりとして黄色い花を咲かせています。最盛期のあの勢いが感じられないのです。なんとなく,「ススキさん,一緒に生きて行こうね」って言っているようにも見えます。

 この辺りのことについて,『青春の門』の作者の五木寛之さんは,『百寺巡礼第四巻』で次のように述べています。

 ちょうど,石塔寺への道すがらの田んぼでも,その状態を見ることができた。ススキとセイタカアワダチソウが,お互いに寄り添うようにして生えているのである。
 激烈に戦ったすえに,仲よく共生していこうという姿勢になった。セイタカアワダチソウがなで肩になって,なんとかここで生かせてください,という感じに変わってきたのだ。(「第36番石塔寺」『百寺巡礼第四巻』,156p)

 では,五木さんは,なぜこんな話題を『百寺巡礼』という本で取り上げたのでしょうか。
 それは,神仏混交なんでもありの「日本人の文化の多様性こそ,これからの世界が見習うべき点がある」という指摘なのです。

 あまりに厳格に押しつけると,根づかないのではないか。
 厳格に押しつけるということは,元からあったものを根絶やしにして,その上から異質なものを強制するということだ。私は,それではだめだという気がしている。
 ピュアな宗教の立場から見れば,「馴化」や「習合」はよくないものであり,異端だとされるにちがいない。
 けれども二十一世紀はもはや,そういう考えでは乗りきれないという気がする。異端とよばれるものも,文化の多様性にすぎない,と考えたほうがいいと思う。(同書,160p)

 最近の学校では,ハロウィンまで出て来ています。私はついて行けないけど,たぶん,これが日本人の姿なのでしょう。こうしていろんな文化を取り入れて日本風に付き合い,新しい日本文化を作っていく。多様性を取り入れることがうまかったからこそ,今の日本があるのだと思います。
 これまでに悲劇があったとすれば,「神国日本が一番」と叫んでいた時です。これは日本の文化にあわない思想だったはずです。

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コメント

 キヨミンさんへ。
 それは,なかなか難しい問題ですね。
 でも,親子で「あっち向いてホイ!」になっていないというだけでも,お互いの存在を認めているんですよね。
 以前,珠洲には「原発賛成・反対」というイデオロギーだけで,同じ屋根の下に住んでいる親子でさえも,半目しあっていた時代もあったのですから。
 <仏教>というものが,ほかのすべてを受け入れると言うわけでもないでしょう。ただ,日本人の文化の吸収の仕方は,オリジナルを大切にしながらも,日本にあったように造りかえていくようです。ま,これは日本人だけに限ったことはないのかも知れませんが,ほかの民族よりも異国文化の取り入れ方がうまい(というか優柔不断)と思います。
 薄っぺらいと言えば薄っぺらいし,だらしがないといえばだらしがない。でも原理原則を振りかざしている人たちが,争いを起こしている現状があるので,やはり日本人のこの姿勢には見習うべき点が多々あるのでは…と思うのです。

投稿: 珠洲たの管理人 | 2011年11月 3日 (木) 20:29

先日、母を乗せて外浦まで出かけるのに、途中山中を通りました
 その時、黄色の草花を見ながら「京都へ向かうときセイダカアワダチソウが一面黄金の絨毯になっていたので俳句にしたかった」と趣のあることを言いました。
でも、私は話を聞いただけで目がかゆくなるとだけ答えて・・・実際その夜はひどかった
面白かったのは帰り道母がくしゃみを連発していたことでした
セイダカアワダチソウってブタクサでしょsad
 五木さんの講演もを同じく母と一緒に聞いたことがあります。
その時のテーマも日本の文化と宗教だった
私の母校に聴講生として五木先生おいでたけど・・・
このあいまいさにはなぜか同調できませんdown
熱心な仏教徒である母はそうだそうだと連呼するのですが、その母は唯一神であるという私の信仰心を毛嫌いしますもの
子どもの頃からの風習やしきたりを重んじかたくなに守る母の姿勢は典型的な日本人の心を表しているとひそかに反発。
 一つのことを深く掘り下げると広く受容できると考えるようになったので、日本人の抑合姿勢は薄っぺらだと思うのだけど
やっぱ私も頑なかな

投稿: キヨミン | 2011年11月 3日 (木) 19:36

どうも、最近の日本人は「見えないこと」は「みないようにしている」感じがします。


ご指摘のとおり、(ペットボトルやプラスチックの)リサイクルというのは、残念ながら現在は「(社会的実験的な要素が強く)適切かつ現実的にリサイクルされているケース」は非常に少ないです。また、リサイクルするためだけではなく、リサイクルするという安心からペットボトル等の消費が一向に減らない状態に陥っています。
さらに、過度な分別によって可燃ゴミの焼却炉は適切なカロリーに達せず、重油や灯油をかけている自治体もあります。
海外(とりわけ中国)に輸出されている資源と呼ばれているもののには「バーゼル条約」に引っ掛る恐れがあるものも含まれているくらいです。

こうしたことから、私は原則「焼却処分すべき」と考えています。もちろん、アルミなど有効に使えるものまで焼却する必要はありませんが(汗)

1.イノベーション・技術革新を進める
2.人工的につくられたものは人工的に処分・解決する
3.資源は節約するのではなく積極的に利用する
ということをよく言うのですが、なかなか理解できる人はすくないと思います(笑)

投稿: salir | 2011年11月 2日 (水) 23:10

 salirさん,いつも反応ありがとうございます。
「リサイクルは無意味」というか,リサイクルされるものほど,より大量生産されていることを知らない人たちが多いですね。リサイクルで「日本として」成り立っているのはアルミくらいでしょう。他のものは,エネルギー的に収支が合っているものなんてないのでは…。
 一部分だけに焦点を当てて報道することで,ウソをつかれてしまうことがよくあるのです。それは過去のことだけではありません。
 DDTの話もそうです。「DDTは害だ!」ということにはだれも反論しませんが,それを使わなかった場合のマイナス面もしっかり伝える必要があります。そこがなくて,報道するから,結果的にはほとんど地球にも人間にも優しくない環境対策があったりするんでしょう。

投稿: 珠洲たの管理人 | 2011年11月 2日 (水) 20:22

ご承知の通りセイタカワダチソウは不思議な多年草で、根にある毒によって周囲の植物をダメにする反面、対抗する植物が居なくなると、今度は自らの毒でやられてしまうという・・・。

結局は、自らの黄金期は一時的でしかないという・・・。


そう考えると、外来種のマイナスの面ばかりが強調されますが、意外とそれなりにやっていけると思うと、あまり喫緊の過大として取り扱わなくてもよいのではないかと思ったりします。

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は確かに人類にとっても大事な指摘だったとは言えます。
しかし、DDTが「悪魔の粉」として製造が禁止されたことで、衛生環境の悪い途上国でのマラリア患者が増えています。DDTの使い過ぎで数人亡くなったでしょう。でもそれ以上に、DDTを使わずに亡くなる命が多い・・・。

しばらく様子を伺うゆとりを大切にしたいですね。

日本人の特性。以前にも記したかと思いますが12月24日から1月1日の一週間、まったく別の宗教行事を行うのは日本人くらいでしょう。ほかの国なら、戦争や事変になっていることでしょう。

日本人は従来から寛容かつ柔軟・従順で、対立するものをうまく取りまとめて来た民族です。
例えば、権威・権力をうまく分け、皇室・陛下には権威。政府には権力を与えました。

私もそうした日本人の特性に則した産業であるとか、ものづくり等を進めていかなければならないと考えています。

>> 世界が見習うべき点
私は日本が「神の国で一番だ」という気はありませんが、しかし、他の国の国民性では日本人の従順や繊細は真似できないと考えています。
私は「リサイクルは無意味」という主張をしていますが、ルールは従っています。でも、こうした分別も日本人だから黙ってコツコツやっているくらいで、海外ではほとんど無法状態になるでしょうね。

投稿: salir | 2011年11月 2日 (水) 16:35

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